2013年12月26日
日本復帰60年メモリアルイベント
奄美群島は2013年12月25日、日本復帰60周年の節目を迎えました。
各地でさまざまな行事・イベントがありましたが、奄美市では17時から名瀬小学校校庭でメモリアルイベントを開催。
復帰運動の舞台となり、60年前のこの日の祝賀会が開かれたこの校庭に、たくさんの人々が集まりました。
石段の上とシンボルツリーを囲むように子供たちが作ったペットボトルの灯篭が設置されました。

ステージでは子供たちによる断食悲願の詩の朗読や語り部・楠田豊春さんの言葉や、群島青年団の「つなぐ言葉」発表など。

断食の舞台となった高千穂神社から届けられた篝火を灯火。

ラジオ南日本(現・MBCラジオ)が伝えた祝賀行事の様子を再放送。8年の苦難を乗り越えて勝ち取った日本復帰の喜びが溢れかえる街や人の様子を声と映像で振り返りました。
島唄や新民謡と続き、後半には奄美出身のアーティスト・カサリンチュ、中孝介、元ちとせさんが歌を披露、華を添えました。

そして、のぼり旗と明かりを灯した提灯を持ち、市街地を提灯行列。
復帰の歌を口ずさみながら、60年前のこの日も当時の人々が行った行列を再現し、その意味を噛み締めました。

今年1年、12月25日に至るまで、本当に数々のイベントが開催されてきました。
私自身、いろんなことを考え、勉強した1年でした。
復帰50周年の時も島にいて、新聞記者をしていたはずなのですが、なにかその時よりも濃い復帰の節目となった気がします。
---------- ----------
第2次世界大戦が終結したあと、奄美は沖縄とともに日本本土から切り離され、米軍統治下に置かれました。
本土への渡航は厳しく制限され、パスポートの取得が必要になり、流通貨幣も米軍の「B円」を使用。奄美は日本ではなくなりました。
人、物の交易が途絶えたことで、奄美の困窮は厳しさを増すばかり。
基地がなかったため沖縄のような基地産業が発展することもなく、米軍の資金の流入も少なかったため慢性的な食糧・物不足、勉学のための教科書もなく、進学にのために密航するーというありさまでした。
このような状況のなかで、次第に復帰運動が高まっていったのは必然であり、米軍によって集会や言論の自由が厳しく抑圧されるようになっても島人の熱意は薄れることがなく、大規模な断食祈願、14歳以上の在住者の99.8%を達成した署名運動といった「無血の民族運動」は中央を動かし、ついに1953年、日本復帰。
12月25日の返還はアメリカからの「クリスマスプレゼント」ということですが、そのような軽い表現で表すことができないほど、この日は奄美の人たちにとって重要な日です。
10年後の復帰70周年には当時を知る人々はさらに減っていることでしょう。
それでも今回のように若い世代へのつながりができていることを期待したいです。
各地でさまざまな行事・イベントがありましたが、奄美市では17時から名瀬小学校校庭でメモリアルイベントを開催。
復帰運動の舞台となり、60年前のこの日の祝賀会が開かれたこの校庭に、たくさんの人々が集まりました。
石段の上とシンボルツリーを囲むように子供たちが作ったペットボトルの灯篭が設置されました。
ステージでは子供たちによる断食悲願の詩の朗読や語り部・楠田豊春さんの言葉や、群島青年団の「つなぐ言葉」発表など。
断食の舞台となった高千穂神社から届けられた篝火を灯火。
ラジオ南日本(現・MBCラジオ)が伝えた祝賀行事の様子を再放送。8年の苦難を乗り越えて勝ち取った日本復帰の喜びが溢れかえる街や人の様子を声と映像で振り返りました。
島唄や新民謡と続き、後半には奄美出身のアーティスト・カサリンチュ、中孝介、元ちとせさんが歌を披露、華を添えました。
そして、のぼり旗と明かりを灯した提灯を持ち、市街地を提灯行列。
復帰の歌を口ずさみながら、60年前のこの日も当時の人々が行った行列を再現し、その意味を噛み締めました。
今年1年、12月25日に至るまで、本当に数々のイベントが開催されてきました。
私自身、いろんなことを考え、勉強した1年でした。
復帰50周年の時も島にいて、新聞記者をしていたはずなのですが、なにかその時よりも濃い復帰の節目となった気がします。
---------- ----------
第2次世界大戦が終結したあと、奄美は沖縄とともに日本本土から切り離され、米軍統治下に置かれました。
本土への渡航は厳しく制限され、パスポートの取得が必要になり、流通貨幣も米軍の「B円」を使用。奄美は日本ではなくなりました。
人、物の交易が途絶えたことで、奄美の困窮は厳しさを増すばかり。
基地がなかったため沖縄のような基地産業が発展することもなく、米軍の資金の流入も少なかったため慢性的な食糧・物不足、勉学のための教科書もなく、進学にのために密航するーというありさまでした。
このような状況のなかで、次第に復帰運動が高まっていったのは必然であり、米軍によって集会や言論の自由が厳しく抑圧されるようになっても島人の熱意は薄れることがなく、大規模な断食祈願、14歳以上の在住者の99.8%を達成した署名運動といった「無血の民族運動」は中央を動かし、ついに1953年、日本復帰。
12月25日の返還はアメリカからの「クリスマスプレゼント」ということですが、そのような軽い表現で表すことができないほど、この日は奄美の人たちにとって重要な日です。
10年後の復帰70周年には当時を知る人々はさらに減っていることでしょう。
それでも今回のように若い世代へのつながりができていることを期待したいです。
2013年12月17日
与路島への旅
15日の日曜日、与路島(よろじま)を訪れました。
「しまコンシェルジェ」瀬戸内町編。足を踏み入れたことのない与路島へ初上陸です。
奄美大島と徳之島の間には3つの有人島が存在します。通常は奄美大島に属した捉え方ですが、行政区域としては瀬戸内町にあたります。それが加計呂麻島(かけろまじま)、請島(うけじま)、与路島です。
奄美大島に住んでいても、この3島を訪れたことのある人は少ないのではないでしょうか。
特に請島・与路島へは船で1時間以上かかるとあって、私も奄美に住んで10年超、やっと今回上陸の機会を得ました。
奄美大島最南にある瀬戸内町古仁屋から、定期船「せとなみ」に乗船。請島を経由し、与路島へ着くまでは約1時間半の行程。
せとなみは毎日古仁屋~与路島を運行していますが、古仁屋発着で日帰りでできるのは日曜だけ。
奄美市名瀬からバスで約1時間+船1時間半=2時間半×2=往復5時間の旅。ちなみに与路島滞在時間は約3時間です。
せとなみに乗り込もうとすると、先に仔牛が乗り込んでいました。
与路島で親牛にするそうです。

海は超凪。空は曇り。船内で休もうかと入りましたが、椅子ではなくカーペットなので、毛布にくるまって雑魚寝状態。
観光船ではなく、本当に島の人たちのための生活航路なんだなあ、と実感しました。
とりあえず中は断念して、外で風を受けながら島並を眺めることにしました。

加計呂麻島に沿って東へ船は向かい、表から裏から、加計呂麻島の外観を見せてくれます。

海からしか見られない白い滝。

険しい断崖には洞窟のような穴がそこかしこに。

航海の目印とされてきた「ヒヨコ」岩。

テレビのロケ地にもなったハミャ島。
離島のなかの離島と言われる、加計呂麻島・請島・与路島。すぐ近くにあるのに、こんなに遠い。
こうして船で近づいているというのに、なぜかその感覚はさらにリアルさを増していきます。
請島を経由して、11時半ごろ与路島へ到着。仔牛たちもクレーンで釣られて無事上陸です。

与路島は現在人口98人。面積は請島よりも小さい9.35平方km。主な産業は農畜産業。
与路島といえばサンゴの石垣。見事です。

きれいに敷地を区切ってありますが、石垣の中を覗くと、家屋はなく荒地だったり。人の住んでいない空家だったりが、目につきました。
ただ、住まわれている家屋では、皆きれいに植木などを刈り込んでいて、石垣による区画も含めてとても美しく整備された集落だという印象でした。

なぜ与路島にはこれだけのサンゴの石垣が現存しているのか。
通常サンゴの石垣は豪農など裕福な人がお金をかけてやるものでしたが、与路島では、すべて結ワクでやろう、という習わしがあり、サンゴの採集は住民総出。これによって豪農だけではなく一般の人々であっても作ることができたためということのようです。
さらには各種事業によってサンゴ石垣の修復作業も進んでいるため、今も美しい家並みを保っています。
サガリバナの大木。
7-8月の夜に見られるというサガリバナ。機会があればぜひ、夏場に訪れて鑑賞したいところです。

集落内を歩いたところで港に戻り、再びせとなみへ。
小雨もあったので、帰りは毛布を頂戴して、心地よい揺れにまかせて船内でぬくぬくと帰路に着きました。
■----------------------■
あっという間の旅。いろんなことを考えました。
100人を切る人口。島としての将来への展望は、明るさよりも不安が大きいだろうと思います。
それでも、今訪れたこの島に対して、けして寂しいとか、廃れた印象を抱くことが少なかったのは、たぶん、住んでいる人たちの手や心遣いが集落全体に行き届いていることを実感したからだと思います。
与路島を離れる時、船が出るまで、お世話になった区長さんたちがずっと外に立ち、手を振って下さっていた姿が心に残ります。
穏やかで優しく、住んでいる島民性を感じさせる美しい島。次回はぜひ請島にも訪れてみたいです。

「しまコンシェルジェ」瀬戸内町編。足を踏み入れたことのない与路島へ初上陸です。
奄美大島と徳之島の間には3つの有人島が存在します。通常は奄美大島に属した捉え方ですが、行政区域としては瀬戸内町にあたります。それが加計呂麻島(かけろまじま)、請島(うけじま)、与路島です。
奄美大島に住んでいても、この3島を訪れたことのある人は少ないのではないでしょうか。
特に請島・与路島へは船で1時間以上かかるとあって、私も奄美に住んで10年超、やっと今回上陸の機会を得ました。
奄美大島最南にある瀬戸内町古仁屋から、定期船「せとなみ」に乗船。請島を経由し、与路島へ着くまでは約1時間半の行程。
せとなみは毎日古仁屋~与路島を運行していますが、古仁屋発着で日帰りでできるのは日曜だけ。
奄美市名瀬からバスで約1時間+船1時間半=2時間半×2=往復5時間の旅。ちなみに与路島滞在時間は約3時間です。
せとなみに乗り込もうとすると、先に仔牛が乗り込んでいました。
与路島で親牛にするそうです。

海は超凪。空は曇り。船内で休もうかと入りましたが、椅子ではなくカーペットなので、毛布にくるまって雑魚寝状態。
観光船ではなく、本当に島の人たちのための生活航路なんだなあ、と実感しました。
とりあえず中は断念して、外で風を受けながら島並を眺めることにしました。

加計呂麻島に沿って東へ船は向かい、表から裏から、加計呂麻島の外観を見せてくれます。

海からしか見られない白い滝。

険しい断崖には洞窟のような穴がそこかしこに。

航海の目印とされてきた「ヒヨコ」岩。

テレビのロケ地にもなったハミャ島。
離島のなかの離島と言われる、加計呂麻島・請島・与路島。すぐ近くにあるのに、こんなに遠い。
こうして船で近づいているというのに、なぜかその感覚はさらにリアルさを増していきます。
請島を経由して、11時半ごろ与路島へ到着。仔牛たちもクレーンで釣られて無事上陸です。

与路島は現在人口98人。面積は請島よりも小さい9.35平方km。主な産業は農畜産業。
与路島といえばサンゴの石垣。見事です。

きれいに敷地を区切ってありますが、石垣の中を覗くと、家屋はなく荒地だったり。人の住んでいない空家だったりが、目につきました。
ただ、住まわれている家屋では、皆きれいに植木などを刈り込んでいて、石垣による区画も含めてとても美しく整備された集落だという印象でした。

なぜ与路島にはこれだけのサンゴの石垣が現存しているのか。
通常サンゴの石垣は豪農など裕福な人がお金をかけてやるものでしたが、与路島では、すべて結ワクでやろう、という習わしがあり、サンゴの採集は住民総出。これによって豪農だけではなく一般の人々であっても作ることができたためということのようです。
さらには各種事業によってサンゴ石垣の修復作業も進んでいるため、今も美しい家並みを保っています。
サガリバナの大木。
7-8月の夜に見られるというサガリバナ。機会があればぜひ、夏場に訪れて鑑賞したいところです。

集落内を歩いたところで港に戻り、再びせとなみへ。
小雨もあったので、帰りは毛布を頂戴して、心地よい揺れにまかせて船内でぬくぬくと帰路に着きました。
■----------------------■
あっという間の旅。いろんなことを考えました。
100人を切る人口。島としての将来への展望は、明るさよりも不安が大きいだろうと思います。
それでも、今訪れたこの島に対して、けして寂しいとか、廃れた印象を抱くことが少なかったのは、たぶん、住んでいる人たちの手や心遣いが集落全体に行き届いていることを実感したからだと思います。
与路島を離れる時、船が出るまで、お世話になった区長さんたちがずっと外に立ち、手を振って下さっていた姿が心に残ります。
穏やかで優しく、住んでいる島民性を感じさせる美しい島。次回はぜひ請島にも訪れてみたいです。

2013年12月02日
商店街うまいンピック
奄美市名瀬の中央商店街で30日、「秋祭り」がありました。
この日はとてもいい天気。ぽかぽかして、ずっと外にいたら暑いくらいでした。
商店街は普段見ることのできないほどの人でにぎわっていました。
周囲の駐車場も満杯。やはりこういったイベントがあればみなさん参加するんですね。
さまざまなイベントがありましたが・・・
まずは「うまいンピック」へ。概要は以下の通り。
本イベントの目的は、他の地域との交流により群島内の情報交換・発信、地域経済の活性化及び観光振興に寄与すること。また、大自然に恵まれた奄美群島の「食」を日本国内外に発信することである。(うまいンピックHPより)
事前販売していたせいか、到着したころにはなんと食券が完売。ショックでしたが「現金販売しない」、ということでしたのであきらめて帰ろうとしたところ、「あまりが出てきた」ということで、なんとか食券を手に入れることができました!
しかし、出店14店舗の半数以上がすでに完売状態…。
何食分を用意するかは店に任されていたとかで、各店舗の販売食数にはばらつきがあったようです。
とりあえずまだ販売しているお店で購入。
以下、食べかけの写真ですが・・・
●ハレルヤ食堂さんの「あまみシマヤキソバ」
つきあげと豚骨がどん!と乗っかった、太麺焼きそば。カツオブシ粉的なものが麺全体にまぶされていて、かなりおいしかったです。ナリみそをソースに使っているということでした。豚骨は軟骨までトロトロ…美味。ボリュームもあって、これで300円とは!大満足でした。
●和知さんの「魚介の島雑炊」
あっさり食べやすかったです!具は・・・モズクはわかりましたが、あとは・・・すみません情報がなくよくわかりませんでした。でも同行した1歳児がモリモリと食べていました(*^_^*)
ほかにも食べたいものがありましたが、完売で残念…今後、それぞれのお店で出したりするんでしょうか。
ちなみに結果は、
①奄旨魚匠の「魚匠バーガー」
②赤木名キムチ工房の「奄美よくばり丼」
③民宿さんごビーチの「ジャーク de トルティーヤ」
ということでした!どれも食べられませんでした…(-"-)残念。
アーケード内では、宇宙兄弟のイベントが盛り上がっていました。
無重力体験は11歳までの子供限定で、見ている大人は、
「・・・(そんなにグルグル回って…大丈夫なの???)」
という感じでしたが、子供たちは全然平気なようで、行列していました。
ほかにも舞台イベントも。
とっても盛り上がっていたし、ご飯もおいしかったし、楽しかったです。
中央商店街の活性化。
現在の奄美市が進めている事業もやや混迷を極めているようですが…
やはり人が集まらないと活気は生まれないですね。本当によい方向に進んでほしいです。
2013年11月10日
復帰60周年記念式典
奄美群島日本復帰60周年記念式典が9日、奄美市の奄美文化センターで盛大に行われました。
出席者は市町村長や各種団体、郷友会、日本復帰運動に関わった人など約1400人。スーツや大島紬に身を包んだ出席者が早くから会場を訪れました。
会場ロビーには、米軍統治下時代の写真展示もあり、60年という年月による激しい移り変わりにさまざまな思いを抱きます。
式典は、歓迎アトラクションで幕開け。
登壇したのは、朝山毅奄美市長や伊喜功大島支庁長ほか、来賓として太田昭宏国土交通大臣、牧原秀樹環境大臣政務官、伊藤祐一郎県知事、国会議員ら。
60周年の節目を祝い、先人たちの功績に学ぶことと、今年で期限切れを迎える奄美振興開発特別措置法の延長・拡充を求めていくこと、世界自然遺産候補地となった奄美の発展に期待するーという内容の祝辞がありました。
その後子どもたちによる「映像と朗読」へ。
瀬戸内町立古仁屋小5年の安大智くんがグランドピアノを弾きながら、自ら日本復帰の歌を独唱。
ピアノ、歌、両方が本当にすばらしく、会場の拍手もひときわ大きかったような気がします。今後注目されるのではないでしょうか。
各島を代表した子どもたちによるメッセージもよかったですね。みな、「わたしは、自分が生まれたこの島が大好きです」と、島のいいところ、自慢したいところを話したのがよかったと思います。
復帰の父・泉芳朗氏の詩「島」に、「私は 島を愛する ~中略~ かなしく 美しい恋や苦悩のうたを捧げて来た 私はこの島を愛する」という一節があります。いつも、この詩には心をつかまれます。
ただ、島を愛するというその感情。いいもの悪いものないまぜにして、島を愛する。それは子に対する親の無条件の愛情と似ている気がします。
祝辞でも世界自然遺産登録の早期実現を求める声が多数でました。
しかしいつも思うのは、自然を、故郷を愛する気持ちを育てることが大事なのではないか、ということです。その気持ちの育ちも不十分なまま、「自然を大切にしよう」「伝統文化を継承しよう」などと呼びかけても効果はでないだろうと思います。
なぜ、自然を大切にしなくてはいけないのか?
だって島が好きだから。
ごく当たり前にそうはっきりと言い切れるなら、おのずと環境やシマを知り、守り伝えていくことにつながっていくのだと思います。
式典終了後はミュージカル劇などアトラクションがあり、加計呂麻島出身の青年が島の開発事業に携わることになり、島に戻るーという興味深いストーリー。躍動感あふれる踊りや島唄などもあり、見応えのあるものでした。
式典を振り返り、60周年の節目をどうとらえるか。改めて考えてしまいます。
復帰当時のことを記憶する高齢の方々は別だと思いますが、一般住民にとっては実はあまり大きな意味を持っていない、というのも本当のことだと思います。なんら生活が変わるわけでもない。
しかし、物事において「節目」はやはり大切。奄美のいろんなことを考える契機としては、ベストな節目であることは間違いないと思います。
2013年11月09日
朝仁海岸の野外劇
4日夜、野外劇があると聞き、子供を連れて奄美市の朝仁海岸を訪れました。
「楽市楽座」という劇団が全国で行っているという野外劇。海岸での開催と無料であるということから興味を誘われました。
夜7時すぎ、すでに海べはすっかり暗がりが支配。
ただ一か所、ライトに照らされた場所が。海べりにステージをセットしていました。

演者は3人。父母娘の家族で行っているということでした。
丸い木枠のステージの中には水が張られ、そこにまた円盤が浮かび、くるくる回るようになっています。
観客はステージを丸く囲み、吹きすさぶ風のなか、その不思議な野外劇を見守っていました。

かなり寒いなかだったのですが、予想以上に人がいる、という印象でした。
京劇を思い起こさせるようなメイク・衣装をまとった演者たち。
大阪弁に独特の調子を混ぜた不思議なセリフ回し。
浮き沈みする水に浮かんだステージ。
ジャンルを特定できない歌と踊りの数々。

その雰囲気は本当に独特で、丸く囲った観客席によって、演者と観客、そして観客と観客が極めて近く親近感すらわくように感じました。
観覧無料ですが、投げ銭方式。子どもたちが折り紙に小銭を包み、見せ場のたびにステージに投げ入れていました。

ある種異様な舞台と雰囲気に圧倒されましたが、そもそもの劇の筋は、王様と洋服を作る女性2人とのお話のよう。
しかし開演から1時間ほどで雨が降り始め、やむなくその場を去りました。
いまも、あの結末が気になります。
「楽市楽座」という劇団が全国で行っているという野外劇。海岸での開催と無料であるということから興味を誘われました。
夜7時すぎ、すでに海べはすっかり暗がりが支配。
ただ一か所、ライトに照らされた場所が。海べりにステージをセットしていました。
演者は3人。父母娘の家族で行っているということでした。
丸い木枠のステージの中には水が張られ、そこにまた円盤が浮かび、くるくる回るようになっています。
観客はステージを丸く囲み、吹きすさぶ風のなか、その不思議な野外劇を見守っていました。
かなり寒いなかだったのですが、予想以上に人がいる、という印象でした。
京劇を思い起こさせるようなメイク・衣装をまとった演者たち。
大阪弁に独特の調子を混ぜた不思議なセリフ回し。
浮き沈みする水に浮かんだステージ。
ジャンルを特定できない歌と踊りの数々。
その雰囲気は本当に独特で、丸く囲った観客席によって、演者と観客、そして観客と観客が極めて近く親近感すらわくように感じました。
観覧無料ですが、投げ銭方式。子どもたちが折り紙に小銭を包み、見せ場のたびにステージに投げ入れていました。
ある種異様な舞台と雰囲気に圧倒されましたが、そもそもの劇の筋は、王様と洋服を作る女性2人とのお話のよう。
しかし開演から1時間ほどで雨が降り始め、やむなくその場を去りました。
いまも、あの結末が気になります。
2013年10月15日
日本復帰60周年「奄美ファンサミット」開催
奄美市による奄美群島日本復帰60周年記念イベントが11日~13日、3日間にわたって開かれました。
主なイベントは、
・琉球弧文化観光シンポジウム (12日、奄美体験交流館)
・本場大島紬大産地祭り (12・13日、奄美市AIAI広場)
・ぐーんとまるごと市 (12・13日、奄美体験交流館)
・奄美ファンサミット (13日、各会場)
などで、ほかにも歓迎レセプションや夜のやんごまつり、交流会なども開かれました。
今回、興味深いのは何と言っても全国の奄美出身者と奄美ファンが一堂に会した点。
いままであまりこのようなイベントは聞いたことがないし、60周年を契機に、島外の視点で奄美の未来へ提言する、という主旨がとてもよいと思いました。
まずはAIAI広場の「本場大島紬大産地祭り」初日に伺いました。
紬業者さんが並べる紬関連グッズがずらり。やはり反物が並ぶと圧巻ですね。

価格は6万円台から30数万円のものまでピンきり。通常より1-2割安くなっているということで…とてもお買い得だったようです。
織りの体験ができたり。

なんとカイコまで展示?されていました。

桑の葉の上でもぞもぞ動く様子を見ていると、これであの絹糸ができるんだなーと思うと不思議な感じです。
泥染め体験ができたりクイズラリーなどで景品がもらえたり、コクトくんと記念写真が撮れたりと、子どもたちも楽しめる要素もたくさんだったのがとってもよかったと思います。
続いて「琉球弧シンポジウム」。オープニングは伊津部小のさざなみバンド。チヂンにほら貝、三味線の芸達者、見事です!

鹿児島、沖縄から学識経験者と民間会社社長が登壇。奄美の魅力、今後についてそれぞれの考えを述べたほか、2部では奄美・沖縄それぞれの郷土芸能が披露されました。
さて、13日はメインイベントの「奄美ファンサミット」。

午前中の分科会に続いて午後から開かれた全体会を見に行きました。すると、昨日の琉球弧シンポに勝る人の少なさ…
なんか残念。新聞などで日程は掲載されましたが、周知不足だったのでは…という疑念が拭い去れません。
観光・スポーツ・紬特産・100人応援団・郷友会・フィールドワークの6部門に分かれて奄美の現状・未来への提言を検討。全大会で発表となりました。
意見・提言は、
「国家資格の奄美観光ガイド認定を作りたい」
「奄美独自のポータルサイトの構築」
「7年後の東京オリンピックに向けた夏合宿地として奄美に誘致できないか」
「まだまだPR不足。全国の物産展情報などを一元化してきちんと周知したほうがいい」
などなど。また、どの分野からも一貫して「航空運賃の高さ」に対する苦言が重なったことが印象的でした。
主なイベントは、
・琉球弧文化観光シンポジウム (12日、奄美体験交流館)
・本場大島紬大産地祭り (12・13日、奄美市AIAI広場)
・ぐーんとまるごと市 (12・13日、奄美体験交流館)
・奄美ファンサミット (13日、各会場)
などで、ほかにも歓迎レセプションや夜のやんごまつり、交流会なども開かれました。
今回、興味深いのは何と言っても全国の奄美出身者と奄美ファンが一堂に会した点。
いままであまりこのようなイベントは聞いたことがないし、60周年を契機に、島外の視点で奄美の未来へ提言する、という主旨がとてもよいと思いました。
まずはAIAI広場の「本場大島紬大産地祭り」初日に伺いました。
紬業者さんが並べる紬関連グッズがずらり。やはり反物が並ぶと圧巻ですね。
価格は6万円台から30数万円のものまでピンきり。通常より1-2割安くなっているということで…とてもお買い得だったようです。
織りの体験ができたり。
なんとカイコまで展示?されていました。
桑の葉の上でもぞもぞ動く様子を見ていると、これであの絹糸ができるんだなーと思うと不思議な感じです。
泥染め体験ができたりクイズラリーなどで景品がもらえたり、コクトくんと記念写真が撮れたりと、子どもたちも楽しめる要素もたくさんだったのがとってもよかったと思います。
続いて「琉球弧シンポジウム」。オープニングは伊津部小のさざなみバンド。チヂンにほら貝、三味線の芸達者、見事です!
鹿児島、沖縄から学識経験者と民間会社社長が登壇。奄美の魅力、今後についてそれぞれの考えを述べたほか、2部では奄美・沖縄それぞれの郷土芸能が披露されました。
さて、13日はメインイベントの「奄美ファンサミット」。
午前中の分科会に続いて午後から開かれた全体会を見に行きました。すると、昨日の琉球弧シンポに勝る人の少なさ…
なんか残念。新聞などで日程は掲載されましたが、周知不足だったのでは…という疑念が拭い去れません。
観光・スポーツ・紬特産・100人応援団・郷友会・フィールドワークの6部門に分かれて奄美の現状・未来への提言を検討。全大会で発表となりました。
意見・提言は、
「国家資格の奄美観光ガイド認定を作りたい」
「奄美独自のポータルサイトの構築」
「7年後の東京オリンピックに向けた夏合宿地として奄美に誘致できないか」
「まだまだPR不足。全国の物産展情報などを一元化してきちんと周知したほうがいい」
などなど。また、どの分野からも一貫して「航空運賃の高さ」に対する苦言が重なったことが印象的でした。